僻地に生きる歯科医
生活保護者誕生
近、世の中では生活保護に対しての意見がたくさん出ている。生活保護という概念はみなさんもご存知のように日本国憲法の生活権から発生している。しかし、その運用などに関してはさまざまな問題があり、現在も根本的には諸問題は解決しないままの状態が続いている。

の住む北海道は生活保護者が多い。理由は色々と言われているが、ハッキリとはわからない。それに個々の人が生活保護を受給するようになった経緯は十人十色であり、そのため生活保護を受ける原因は「こうだ!」とつかめない。生活保護を受給するようになった経緯をその後の行政に反映させる仕組みも全くない。これは、生活保護を管轄する官庁の仕組みの複雑さによると考えられる。

海道では、生活保護の申請は最初に市町村の窓口で行う。しかし生活保護を実際に運用するのは都道府県だ。だが、札幌の道庁が直接審査をするのではない。各地方にある支庁が事実上の最終決定権を持っている。さっくばらんに言うと、市町村に下働きをさせて支庁が監督(威張る?)し、道庁は知らん顔という図式が成り立っているのだ。

活保護を受給している方は、生まれてからずぅーと生活保護を受けているわけではない。職業暦など一応調べるが、おざなりらしい。だから生活保護が必要となった経緯の調査は、行政にはほとんど生かされない。そのため、分かりきった原因で生活保護を受けざるを得ない立場の人が出現する。

近な具体例がある。私の街では道立の役所や学校が大幅縮小になった。当然こういった役所には掃除をはじめさまざまな基礎的仕事があり、そのほとんどは外注されている。役所が統合になると、この仕事に頼っていた人たちは失業してしまう。また、仮に存続しても熾烈な受注競争が起きており、ある官庁の掃除を長年随意契約で落札してきた清掃会社があるが、競争入札になったせいで都市の清掃会社がその仕事を落札し、その結果その官庁で清掃を担当していた人(10人くらい)は全員解雇になった。清掃などの仕事をする方は高齢者が多く、しかも諸事情で転職も容易ではない。また、新しい仕事に対する順応性も非常に低い。さらに多くの方は持病を抱えている。そのため、一度仕事をクビになったら再就職の道は非常に険しい。第一、同じような仕事を希望する方が求人の何倍もいる。私のような診療所にも、近頃「掃除の仕事はありませんか?」と電話が来るくらいなのだ。こうした(マスコミで言う)効率的な行政を作る陰で、地方の弱者人たちが切り捨てられ、それによって成り立っている部分が少なくない。地方では、生活保護はこうした人々の受け皿として威力を発揮している。つまり、都会の政治家先生のおっしゃる「セーフティーネット」なるものは、地方ではほとんど機能しないし、地方での最大のセーフティーネットはズバリ生活保護なのである。

活保護にはマスコミが報道しない裏の面もある。受給者がこれを「自分の権利・既得権」と解釈し職業化する一面である。生活保護を受けながらこっそりアルバイトをするのだ。本来ならアルバイトをしていることは役所に申告すべきなのであるが、働けば働くほど生活保護の受給額が減るしくみなので、正直に申告するようなことはない。つまり、制度がうまく機能していないのが現実である。

の近くに最近、生活保護を受給した方がいらっしゃる。仮にAさんとしておく。
Aさんは、当地ではごくごくどこにでもいる普通の主婦であった。結婚してから当地(街の中心街からかなり離れている)に住み子供もできた。当時、当地は非常に景気が良く、さらに通称「デメン仕事」(短期のアルバイトのような仕事)が多かった。この「デメン仕事」は普通の正社員の仕事に比べれば賃金効率がよい上に、税金を捕捉される確率が少なかったので、普通の生活よりワンランク上の生活をすることができた。「デメン仕事」のマイナスは、健康保険や労災などの社会保障が一切ない場合が多いことだ。こういった状況で働いている人が年金を自主的に払っているとは考えにくい。しかし年だけは確実に取っていく。

からの好景気と北海道の漁業指導が大当たりしてAさんの暮らしはだんだんと派手になっていった。街に出るのにも往復タクシーを利用したし(当時でも1万円近くかかった)、高級な装身具も身につけていた。街のちょっとしたところの奥様のようないでたちで買い物をする姿をよく見かけた。服だけを買いに札幌へ行ったことも何回もあったそうだ。

ころがAさんの生活を一変させる出来事が起きた。Aさんのご主人が倒れて入院したのだ。当時まだ老人は月に1000円も出せばほとんど無制限に入院できた時代なので、医療上でのさしたる大きな出費はなかった。その1年後、ご主人は亡くなられた。ご主人の死後、生命保険に入っていたのでそれなりのお金が入って来た。本来、こういった保険金は残された人の生活のために使うべきものであるが、このお金がAさんのミエを大きくした。当地では寡婦とか一人親の家族、離婚した人を軽く見る風潮が本州に比べるとかなり少ないが、しかし全くないわけではない。そこにAさんは過剰に反応するようになった。

が、年々Aさんも体調が良くないことが多くなった。さらに持病が悪化して働けなくなった。本来ならそれなりの年金がもらえる年齢であるが、若い時に十分かけていなかったので数万円にしかならない。これでは暮らせるはずがない。Aさんには子供が何人かいたが、全員30歳を過ぎて誰も一度も定職についていない。これでは自分の暮らしを支えるだけで精一杯でとても親の扶養までは手が回らなかった。

うしているうちに誇り高いAさんは、1回数百円の病院の一部負担金にもこと欠くようになった。でもミエは捨てきれず、バスで街にやって来ても、なじみの店の前までの200〜300mでさえタクシーに乗っていくという健在振りを示した。現実は厳しく、背に腹は変えられず、数百円単位でお金を借りるようになった。誇り高いAさんは「前回のお礼」と称して、貸してくれた人に果物や肉を時々持ってきたからAさんの経済状態は急速に悪い方へ進んだ。さらに追い討ちをかけるように認知症のごく初期の症状が出てきた。やがて周囲の人が1人去り、2人去りしていった。そんななかで、ある商店主が異変に気づき私の所に相談にやってきた。

はAさんと介護の立場で話をした。この認知症について見逃すことが出来なかったのである。一人暮らしでしかも親族も近所に住んでおらず、子供からの援助も期待できないとなると、悲惨な結果は目に見えている。その予防と持病の治療(歯科的にも入院を要することがあった)のために役場と相談して生活保護へと進めていった。

日、Aさんから電話があった。「先生のおかげで大きな病院に昨日入院しました。隙間風のない暖かい部屋で本当にぐっすり眠れました。朝、本当に久しぶりに暖かい味噌汁を飲みました。本当にありがとうございました」とAさんは電話口で泣いていた。しかし、Aさんの戦いはこれからも果てしなく続くのである。今日はそのホンの最初の1日かもしれない。福祉の難しさを思い知らされた事案だった。
<2008.6.4>

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